「困ってる方に、使うてもらえたら」
水虫治療薬エフゲンの誕生は今から約40年前。
生み出したのは昭和気質の漢気一本、「オヤジ」と呼ばれていた「今里源太郎」。
驚くことに薬学者や、医者や、科学者ではないのです。
兵庫県尼崎市の自動車工場の経営者でありながら自動車整備士として働くオヤジでした。
しかも、自身も水虫で悩んでいたそうです。
関西弁コテコテの、科学者でも無い普通のオヤジが、なぜエフゲンを開発できたのか?
そのヒストリーは大源製薬の【オヤジの作る水虫薬】<←click>でも詳しく記載しています。
今回は、今里源太郎が、自分の水虫と、水虫で悩む人を救いたいという情熱を実らせ、
「水虫が治せる薬が作れたらノーベル賞もの」と言われていた時代に、
「医薬品」としての「水虫治療薬」としての認可を得るまでに至ったのか、
お伝えしたいと思います。
目次 ・板金修理の最中に閃いた!今までにない水虫の治し方 ・開発に10年。独学で生み出したエフゲンの原型 ・評判は良くても薬局で売れないエフゲンを救う出会い ・まとめ
【板金修理の最中に閃いた!水虫の治し方】
エフゲンは液体タイプの水虫薬です。
液体であるがゆえに、皮膚に浸透する力が強く、塗り続けた皮膚は薬の力によってふやけます。
そして、皮膚自体が持つ「新しい皮膚を生み出す力」を借りて、
水虫に冒された皮膚ごとごっそり排出することによって水虫の原因をやっつけます。
この原理は、今里が自動車整備をしていた際、車の塗装を薬品で剥がしている際に思いついた原理です。
「水虫に冒された皮膚も、錆びた塗装面と同じようにボロボロと削り取ることができたら……」
水虫から解放された、健やかな皮膚を取り戻すことが出来るに違い無いと考えたのでしょう。
さらに、今里の強い情熱の源は、自身の水虫を治すだけではなかったようです。
「水虫で困ってる人に使ってもらいたい」
自他の精神がエフゲンの創造に繋がったのです。
エフゲンの生みの親・今里源太郎は、昭和30年代から自動車修理工場を経営しており、
自身も自動車整備士として働いていました。
自動車整備の仕事は、安全第一。
万が一の事故や、重いものの落下から足を守るための安全靴を毎日履いて仕事をします。
この安全靴は鉄板で覆われており、通気性が悪いのが最大の難点でした。
汗水流して働く最中、この安全靴の中は正に水虫の原因である白癬菌の温床であったと容易に想像がつくはず。
今里自身もひどい水虫に冒されており、さらに水虫の末期とも言われる爪水虫も併発し、悩まされ続けていたと言います。
そして、周囲を見れば職場の従業員達も同じ悩みを抱えていました。
「従業員の足、俺が全員なんとかしてやらなあかん」
その純粋な気持ちを原動力に、薬学知識の一切無い「一介の板金工場のオヤジ」の
水虫薬開発物語が始まったのです。
【開発に10年。独学で生み出したエフゲンの原型の運命とは?】
薬学知識の無い今里は、エフゲンの原型に辿り着くまで10年の時を費やしたそうです。
言葉にして「10年かかった」とは簡単に発することができますが、
その苦労や努力の中身を知れば、「苦節10年」と重みを感じることができるでしょう。
さらに、「経営者」としての一面もある今里を、一番心配したのは家族であったのは間違いないです。
「水虫が本当に治ったらノーベル賞もんやて、ホンマ無理やから放っておき!」と、
突き放すような言葉も意に介さず、
「日本薬局方」という分厚い本を購入し、読書にふけ込む日々を送りました。
そして修理工場の片隅に机を設置し、試験管を並べ、さながらミニ研究所まで用意し開発に挑んでいきます。
初志貫徹。決めたらやり抜く気合と根性。
平成の今では薄れてしまったであろう昭和日本の精神力が、素地として今里にあったのは間違いないはず。
今里は無謀にも、水虫に効きそうな薬物を一つずつ丹念に調べ上げ、調合し始めたのでした。
水虫薬を作るたびに、自分の水虫に塗り、効果を試し続けました。
効果の効き決めの違いを測るために、足の指には一本一本別の試薬を付けました。
誰の力も頼らずに独自の調合で作った水虫試薬でしたが、途中にはなんと効果が現れ、水虫が治りかけたこともあったいいます。
しかし、開発の為に、わざわざ水虫の人の靴下を借りて履き、水虫を再発させて、納得が行くまで試薬作りと格闘し続けました。
今里の妻はこれには呆れ返り、
「せっかく治りかかっているのに、何しとるんよ!」とお怒りになったそうです。
それでも、今里は水虫が治りかけても水虫をあえて悪化させるように過ごし、
より良い水虫薬を開発する為に日々励んだのです。
こうして今里は、「水虫が治りかければ再発させ、さらなる試薬に励む」ことを10年かけてやり遂げました。
【評判は良くても薬局で売れないエフゲンを救う出会い】
今里の努力の結晶の水虫薬はの評判は鰻登りでした。
エフゲンの原型であるその薬は、今里のみならず、従業員の足もきれいに完治させたのです。
その評判は、従業員から広まり、
「他にも水虫で困ってる人にも伝えたい」という内容の相談もたくさん受けるようになりました。
今里はその都度、
「おぉ、構わん。構わん。使つこうてもらってくれや。」
と、水虫で困っている人には惜しみなく無料で配り続けました。
薬事法を考えれば、このような事がまかり通るのも不思議ですが、
制限がまだ今よりも厳しくなかったことに加え、
尼崎という街がこれを受け入れさせたのかもしれません。
いずれにしても、今里の作った水虫薬を使った知人や得意先から、
「これは効く。」「治った。」という評判が日増しに増え、
なんと、感謝状もたくさん届くようなりました。
街の自動車修理工であった今里が、10年という歳月をかけて作った水虫薬は、
巷では効き目のある水虫薬として評価を得た一方で薬局では売れない薬でした。
まだまだ日の目を見るには多くの問題は山積みでした。
ある日今里は、 、感謝の声やお便りを見ながら、従業員にこう呟いたそうです。
「俺な。もっともっとぎょうさんの人にあの水虫薬を使うてもらいたいんや。
悩んでいる人は多いやろ?何かええ方法はないもんやろか。」
「そうですなぁ。薬局でっか?」
そんな従業員が言った言葉に、今里は一筋の光を見いだしたのです。
「そうや!薬局に置いてもろたらええんや。」
「いやいや。社長、またどエラい事を考えますなぁ。それには、お役所さんに認めてもらわなあきませんねんで。」
しかし、今里の耳には、そんな従業員の言葉は聞こえておらず、
この薬をどう世の中に出そうかという一点のみに標準を合わせることになったのです。
まず、一番初めに大きな問題として立ちはだかったのは、厚生省の認可でした。
当時、薬局で薬を売るには医薬品として厚生省の認可が必要で、
100例以上の医師の臨床データがなければ、
申請すら出来なかったからです。
しかも、いくら効くといっても、
所詮は町工場のオヤジが作った薬です。
臨床試験を受け入れてくれる医療機関を探すだけでも、
相当な難航を極めることになりました。
しかし、今里の熱意ある思いが、あたかも神に通じたかのように、事態は急展開します。
神戸労災病院名誉院長の (故)藤田登先生を友人に紹介してもらうことが叶ったのです。
今里は感謝状の山を持参し、これまでのいきさつを語り、その熱い想いを語り尽くしました。
そして、医師の藤田は、今里の人柄と熱意に突き動かされることになります。
「先生。ホンマに、よぉ効きますんや。
わしな。困ってはる方に使つこうてもらえるだけで、ええんです。」
「そうですか。ほな、一度、私が使つこうてみていいですか?」
「えっ、先生も水虫やったんでっか。」
藤田医師自身もひどい水虫と爪水虫に悩んでいた事もあり、
まずは自分で効果を見てみるということになりました。
一介の町工場のオヤジが10年の歳月をかけて生み出した薬を塗り、
数週間経てみれば、水虫に冒されていた皮膚がボロボロと剥がれ落ち始めました。
そして数ヶ月もすると、なんと治らないと諦めていた爪水虫まで完全に治ったのです。
「これはひょっとすると、すばらしい薬かも知れない。」
そう考えた藤田は、さっそく神戸労災病院の皮膚科や自身の門下生の医師に
臨床データを集めてもらうよう依頼し、臨床実験がスタートしました。
そして、臨床実験をスタートさせて 数ヶ月後。
現れた数値結果は 驚異の有効治療率を弾き出し、晴れて厚生省に認められたのです。
そして、無事に薬局、薬店で商品としてに並ぶようになったです。
【まとめ】
今里が一から開発した水虫治療薬が薬局で販売されるようになってから約40年が経ちました。
エフゲンは水虫治療一筋で、薬局、薬店はもとより百貨店でも販売され、
またインターネットでも販売されるようになり、
よりも多くの人から愛され、喜びと感謝の声が届くようになりました。
「困ってはる方に、使うてもらえたら。」
大源製薬の精神は、今里のこの一言に尽きます。
水虫以上に根深くスタッフの心に根付き、1本1本丁寧に時間と手間をかけて作るだけでなく、
心からお客様に接するという企業文化を紡ぎ出しながら、これからも成長していきたいと考えております。